ゑんぷの空虚

支離が滅裂

存在に対する思考の耐久戦

大体物事の原点を追求していくと無に到達すると思うんだけど、無って何だろうか。無があるのかないのか。そもそも無はあってはならないような気がするし、何か無いと説明がつかない気もする。というのも、昔から自分に意識があり、物が目に見えている、存在していると感じることに突然違和感(恐怖も少しあるかな)を感じることがあった。小学生くらいの頃は言葉にできなくて、そういう思考になると暫くひたすらの違和感を感じることになる。何故壁が見えて、いろんな感情を持って、長い人生を歩んできて、他人の存在にも違和感を持たず生きているのか。そもそも生きているとは何なのか。分からない恐怖から自分を救うべく存在について考える。相当胡散臭い話だと思われるかもしれないが、あと少しで腑に落ちそうだなと思うことがあったんだ。というか、こうだったら良いな的な期待も込めて。一つは多次元宇宙論的な考え。ブラックホール特異点はビッグバンであって沢山の宇宙がそこで存在してるって説。これがあり得るとすればワームホールを通じて色んな宇宙を行き来することが出来て、パラレルワールドもあり得るかもしれない。選択な積み重ねである人生はパラレルワールドの行き来で進んで行くのかもしれない。そうすれば無をブラックホールに擦りつける(?)事もできるし私はちょっと安心する。二つ目はこの世界は仮想現実だってこと。まず二重スリットの実験を考えて、ザックリ言うと観測者がいるといないでは実験の結果が変わってくる問題がある。観測すると電子は粒であり、していない時は波のような振る舞いをする。何かに見られているか見られていないか、というのはモノの存在に大きな影響を与えていると言える。とすると、私の目に見えているものも、存在しているから見えるのではなく、見ているから存在していると考えられる。ゲームの世界みたいに。その場面に行ったから画面にそこが映し出されるみたいな。だからこの世は仮想現実で、存在の所以は私が観測してるからと片付けられる。ただ、それでもやっぱり疑問はたくさん湧いてきて、やっぱり夜も眠れない。じゃあ何故私が存在している?それは意識が肉体にあるから?何故物には意識はないのに私にはある?意識とは何だ?哲学ゾンビの話のように他人の意識の有無は全く証明ができない。自分しか分からない。でも目に見えるものを恐れることはこうやって減ってきた。現実をまっすぐ受け止めつつも大きなものに思考を馳せてみたい。あ…眠くなってきた。