ゑんぷの空虚

支離が滅裂

他人との正しい距離感

人との正しい距離感。最近かな、考えられるようになったのは。(上手くできているとは言っていない)やっぱり気を抜くと他人に甘えてしまうし、何でもしてあげたくなってしまうし、最後は自分の思い通りにしたくなる。でも自分の振る舞いがおかしくなると、相手もおかしくなる。しかも、他人は絶対に自分の思い通りになんかならないから。家族でも恋人でも、友人でも。ベースは献身だろうけど、勘違いされそうになったら一旦手を引く、自己主張もする。最近はこれの繰り返し。最初から自分本位に生きられる人は、気をつけることなんて何もないんだろう。自分が可愛くて、誰のことも考えられなくなりたいなあ。他人のためとなるとパワーが湧いてくる自分が、今はまだ損をしている気になってしまいます。なんだかんだ見返りを求めている子どもなのかもね。

まっくらやみ

私はこの変な心の動きと一生付き合って行くのか?理由も無く、きっかけも無く、突如として現れる不安に、今夜もジリジリと蝕まれる。毎度思う。こんな事ならもっと早くに終わらせておけば良かったと。最初から居なければ良かったと。何百時間も孤独に曝されると、気が触れてしまうのかもしれない。この部屋はまるで、時間を忘れた宇宙の様で、私はそこをただ揺蕩うだけ。終わりの見えない悲しみに、身を委ねる。どうせ碌な夢も見れやしないから、眠ることすら恐ろしい。生きてきた中で溜め込んだ怒りは誰に向けられるでも無く、綺麗に昇華されるでも無く、消化不良を起こし、最後は行き場を失って、隠れて自分を傷つけるしか無い。最期は猫の様にひっそりと、誰にも見つからないように眠りたい。目の前で光っているのに、今は希望の光が見えない。全てに靄がかかり、景色は白んでいるばかり。もう誰にも好かれなくてもいい、受け入れられなくてもいい、許してもらえなくてもいい、苦しい今だけ、このままで居させて。

夕の方へ

限りなく夜に近い夕方。大人になるにあたって合わせる帳尻は歪みを生む。小さな地震を起こして解消しなければ、大災害を起こしてしまう。都合の良い人で居るとどうして価値は下がるのか。無駄な努力が溢れてる。これは自己満足だと言うの?献身と履き違えている。おかしいままで生きていることが恥ずかしくなる。素面が怖くて、もう無理しなくていいのに、何がしたかったんだっけ。望むものを見えにくくする。幸せを綴ることに全く意味を見出せない。ちと考えろ、自分の価値を下げることが得意な自分、求められたくば飛んで行けばいい。遠くに。出来るだけ人気のない場所で健やかに息をするといい。どうか元気で。早く夜が来ればいい。

さようなら

夜は感情の凹凸が浮き出てしまう。顕になってざらざらと蝕む。寝ても覚めてもずっと死の匂いが立ち込めている。それは決して触れることのできない。ただ匂うことしかできない。何も出来ない。私には。何も求められない。ただ、ひとり。生きているのか死んでいるのか分からなくなってしまった。だから血が出るのか確かめる。要らない人間。そうだった。いつも誰かが思ってくれるわけじゃないと言われた。家族でもなんでもないたった数年の付き合いで心落ち着けると思うなと言われた。その通りだ。自惚れるな。あなたに言われたことも思い出します。そうやって自分を卑下して逃げていると。自分を卑下することも棚に上げることもできない。考えすぎと言うなら、何も考えずに済むようにずっと目が覚めなければいいのに。意識がある、それだけで頭は止まらない、つらいばかりです。逃げているって言われたくないから、立ち向かいたい。自分に。私はさようならを言いたい。それじゃあ!

25 2023.08.29

今日から25回目の毎日だ。まだまだ生まれて初めては残っているし、何回繰り返してもうまくいかない日もあるけど、ちょっとずつ色んなことが好転している気がする。この一年、目がまわるほどの変化があって、ボロボロになりながら逃げるように辿り着いた今日が、悪い日ではなくてよかった。この歳になってようやく、自分のことが分かってきた。今は、周りの人たちが心地いい。そのままの私と一緒になって笑ってくれることがありがたい。でも、他人のことも自分のことも知った気になってはいけないな。今年はもっともっと色んなことが見えるようになりたい、色んなことを知りたいし分かりたい。

ひとりで(に)

2022年の暮れ、仕事を辞めた。願って無職になった。2023年の暮れ、アルバイトを1つ辞めた。明日で仕事納めだ。この半年間、ひとつの光だけを頼りに、自分のキャパシティをはるかに超えた無理をしてきた。張り詰めた糸が切れそうになりながら。正しく生きようと努めることは、時々私に大きな歪みを産む。今はもう、泣くのを我慢した子供のよう。できればいつも笑っていたい、ヘラヘラしていたい、ふざけていたい。他人の真面目な顔が苦手。その癖わざと真面目な顔をしてみたりする。私も分からない、どんな顔しているのが正解か。

疲れた。でもみんな疲れている。頑張った。でもみんな頑張っている。正しく生きるって我慢なのか?

他人は自分をうつす鏡だ。ずっと肝に銘じているはず。本当にそれでいいの?あなたはそれを望んでいる?もう傷つきやすいのも傷つくことを恐れるのも辞めてしまいたい。自分に自信がないわけじゃない。自分の信条を守りたい、最後は自分を信じている。ただ、他人との関わりの中で、自分以外の人間を傷つけてしまう可能性を恐れている。善人になりたいわけじゃない。あなたには、正しくありたいと思う。だから、なるべく私の我儘で縛り付けないように、自由にしてあげたい。むずかしいな。

普通じゃなくても強くなりたい

私がもう薬を飲まないと決めた時、発達障害を持ったまま社会で生きていく際に直面する困難や苦労を覚悟した。人一倍努力しなければならないと悟った。ありのままで生きることが、どれほど残酷か。世間で説かれる多様性が私には綺麗事に思えた。まず、自分を受け入れるための訓練をした。親に、SNSに、発達障害を告白した。どうしても普通になりたかった自分に、プライドを降ろさせ、普通の人として生きていくことを強制的に諦めてもらった。その上で、治療を辞めた。何ヶ月も続けたが、その副作用が永遠続くことに耐えられなくなった。そもそも、自分1人で生きていくなら、薬なんて飲む必要ないと思っている。当時は、他人の為に治療していた。友人、恋人、私と一緒に働く人。私と関わりを持ってくれる人のために、治療をしていた。それを辞めると決めたのだ、半端な覚悟で生きていけない。置かれた場所では咲くことができない私にとって、それ以降の人生は、自分の息がしやすい場所をひたすら探す旅になった。出来ないことを数えるのを辞めて、自分の持てるものを武器になんとか生きようと。当然、迷惑はかける。だから今でも思う。診察室で泣いていたあの時、手帳を貰わなくて良かったのかと。けれど社会に出るタイミングで、普通の人として働くことを選んだなら、それなりの努力とそれなりの覚悟を決めなきゃならない。覚悟覚悟と何度も書くと安っぽくて仕方ないけど、つまりは自分で決めたことには自分で責任を持つつもりで生きているということ。